麻薬密輸の歴史

メキシコ-アメリカ間の国境を挟んだ密輸は、19世紀から日常的に行われていた。

米墨国境地帯には、ツインシティと呼ばれる、もとはひとつの街であったところに国境が引かれ、北と南に分けられた都市がある。19世紀半ばの米墨戦争の結果、アメリカ領となったためである。そのような地域では、家族が国境のこちらとあちらに分かれて住み、日常的に行き来し、多くの庶民は国境のあちら側とこちら側で値段を異なるものを運ぶことで収入を得ていた。国境は障害というより、それがあるからこそ人が集まり、経済や制度の違いを利用して利益を得るための「資源」だった。

1920年代のアメリカの禁酒法時代には、アルコール飲料が国境の川や運河やフェンスを越えて運ばれた。

1930年代に禁酒法がなくなると、こんどはヘロインやマリワナが運ばれるようになる。

1960年代、ベトナム戦争と北米のヒッピームーブメントの時代にはマリワナの需要が高まる。ベトナム戦争の兵士は戦争で麻薬の使用を覚えたものも多かった。

マリワナの栽培や密輸は違法ながらも地域に根付いたものとなり、栽培農家は地元の軍や警察、州政府などに税金代わりに金を渡していたという。

 

1970年代、アメリカが豊かになるに従って、コカインが主流に。コカインは当初、コロンビアマフィアがおもにカリブ海経由でマイアミなど東部の港に送っていた。アメリカ麻薬取締局がこのフロリダルートを壊滅させると、コロンビアマフィアはメキシコマフィアと手を組み、コカインはメキシコを経由して運ばれるようになる。

1990年代後半、北米自由貿易協定により、米墨国境地域の都市の交通網が整備され、国境の交通量が飛躍的に伸び、密輸に有利なインフラも整備される。

 

1980年代までは、まだ国境を挟んだ親族や知人のネットワークを通じた、いわば家内産業的な、小規模で比較的のどかなものだった。しかし1990年代後半以降には、密輸の規模が大きくなり、手段も洗練されたものになるに従い、暴力的な面がさらにエスカレートしてくる。

 

ちなみに、今年(2012年)が麻薬取引が初めて国際的に禁止されてから100周年になる年だったそうだ。BBCMundoに興味深い記事が出ていたので訳してみた。

 

 

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La guerra contra las drogas cumple 100 años                    

100周年を迎えた対麻薬戦争 

http://www.bbc.co.uk/mundo/noticias/2012/01/120124_drogas_guerra_centenario_1912_fp.shtml

 

トム・デ・カスティーヤ BBCNews Magazine 2012125

 

 対麻薬国際条約が初めて調印されてから100年がたった。今日、各国はヘロインやコカインの密輸阻止のためのたたかいに協力するのは当然と考えているが、1912年当時は事情が異なっていた。ここでは当時の麻薬戦争はどのようなものであったか見てみよう。

100年前、麻薬は国から国へ、当局のたいした干渉もなく、簡単に運ばれていた。「アヘン国際条約」が締結されて以来、すべてが変わり始めた。この条約によって締結国はアヘン・モルヒネ・コカインの取引きを取り締まることを確約したのだ。

 『夢の皇帝たち:19世紀における麻薬』の著者マイク・ジェイによると、当時も今と同じように、アメリカが麻薬取締りを先導し、一方19世紀当時覇権を握っていたイギリスは、条約にはあまり乗り気でなかったという。1世紀前に大きな社会問題となっていたのはアルコールだった。「アルコール中毒については大いに議論されていた。19世紀にはアルコールの大量摂取の習慣が広がり、それが心配されていたのだ」という。

アヘンに対する態度の曖昧さは理解しやすい。イギリスは19世紀にアヘンのために2度も戦争を仕掛けており、これによって中国にアヘンの輸入規制を取りやめさせたのだ。 さらにアヘンの使用については19世紀半ば当時、現在とは大きく異なる見方をされていた。薬局に行けばアヘンやコカインだけでなく、ヒ素も買うことができたのだ。

 もし18世紀か19世紀のイギリスの大きな港に行ってみることができたなら、アヘンが普通の積み荷として陸揚げされるのを見ることができただろう。17852月、タイムズ紙はイタリアのリボルノ産の石油や現ポーランドのダンスク産のエンドウ豆とともに、トルコのエスミルナ産のアヘンがロンドンに陸揚げされていると報じている。

 

流行 

 19世紀には、アヘンはその鎮静効果のために頻繁に使用されていた。ビクトリア女王の宮廷人たちは王宮の薬局でアヘンを入手できた。女王は若きウィンストン・チャーチルとコカイン入りガムを噛み、ウィリアム・グラッドストン首相(186894年の間に何度か首相の座に就いた)は重要な演説をする前にはアヘン入りのお茶やコーヒーを飲んでいたといわれている。

 中国産のアヘンはイギリスでは退屈しのぎの麻薬として吸引されていた。アヘン窟にまつわる伝説が広がったが、特権階級はそこでいくらでも悪習に浸ることができた。オスカー・ワイルドは『ドリアン・グレイの肖像』の中で次のように描いている。「――忘却を購うことのできるアヘン窟があった。古い罪の記憶が新しい罪の狂気によって壊される、恐ろしいアヘン窟が」。

 しかし時とともに流行は変わり、消費者はアヘンの鎮静作用よりもコカインの刺激のほうを好むようになる。アーサー・コナン・ドイルが生み出したシャーロック・ホームズは、コカインを注射する習慣があった。

 『麻薬少女たち:英国における麻薬の隠された文化の誕生』の作者、マレク・コーンによると、探偵ホームズは、コカインは、常に刺激を必要とするような「頭脳明晰で非常に神経質な」人向けだという考え方を反映している、という。コカインの使用は「個人的な欠点」ではあったが、のちに麻薬について回るようになった頽廃的というイメージではなかったという。

 しかしアメリカではコカインはストリート・ギャングと結び付き、人種差別主義者は麻薬が黒人の頭をおかしくして女性を危険にさらすと主張した。そのようなアメリカの国内事情が1912年の国際条約締結を推進させたのである。しかしイギリスのような国々では、当局は取引きは取り締まったが麻薬使用者は取り締まらなかった。

 第一次世界大戦が勃発した当時、イギリスではアヘンとコカインはまだ合法だった。コーンによると、イギリスが変わるきっかけとなったのは、大戦開始から1年後のことである。飲酒の文化が軍隊の戦力を低下させることが懸念され、その結果アルコール販売の規制が強化された。

 その結果、まずいことに麻薬使用の暗黒世界が生まれることになってしまったのだとコーンは述べる。ロンドンの劇場街の一部の売人グループが法を無視し、アヘンやコカインの密売や売春をさせる場を作り出した。当時ロンドンは多くの兵士が行き来する場所であったため、麻薬使用を禁止する緊急法が発せられたのも無理はない。

 

オーバーユーズ

 終戦から間もない頃、スキャンダル好きなマスコミに煽られ、社会不安が高まった。その中には現代のニュースとよく似たものもあった。若い女優らが秘密のパーティーで麻薬の摂取過剰によって死亡し、彼女らは怪しげな噂の人物と関係があったというものだ。いくつかのこういった事件が注目を集め、コカインは若く罪のない女性を陥れる深刻な脅威だという考え方が強まった。しかしパニックは最高潮に達したかと思うとすぐに忘れ去られてしまった。

 ジェイによると、実際のところ、その当時イギリスには「麻薬文化」というほどのものはなく、問題があっても警察によって簡単に取り締まられていたという。「ビクトリア時代のイギリスではアヘンはふんだんにあったが、小屋のようなところで吸うのではなく、粘り気のある液体の状態で薬局で買っていた。アヘン窟はだいたいシャーロック・ホームズやオスカー・ワイルドの小説で作り上げられたフィクションだった」とジェイは指摘する。

 今日、麻薬取り締まり政策の有効性が疑問視され続けるなか、1912年の条約が有効であることは興味深い。国内的には、イギリスでは当時、警察が状況をコントロールしていた。

 ジェイによれば、麻薬に関わる状況が西欧で大きく変化するのは、第二次世界大戦後であるという。「戦後生まれのベビーブーマー世代が実に歴史上初めて、グローバル規模で一大消費者となった。突然、彼らの多くがモロッコにハッシシを吸うために行ったり、覚せい剤を使用しながらヒッチハイクをしたりするようになった」

こうして、堰を切ったように麻薬文化が始まった。しばらくの間当局は比較的小さな犯罪グループを相手にしていたが、今日では麻薬の消費者とそして強大な国際カルテルを相手にたたかうことになったのである。

 

<注> 対麻薬条約

アヘン禁止ハーグ国際条約(1912)

麻薬に関する統一条約(1961)

麻薬及び向精神性薬物の取引きに対する国連条約(1988)