チワワ州最大の街で国境に面したシウダー・フアレスは、2012年8月に訪れた。この街はいわゆる「ツイン・シティ」で、国境になっているリオ・グランデ川の向こう側のテキサス州エルパソとはもとはひとつの街だった。これが19世紀の米墨戦争でメキシコが敗れ、川の北側がアメリカ領になった。
空港から市街地まで、タクシーで300ペソ、バスなら6ペソ。安いのが大好きな私は重いスーツケースを引っ張って当然のようにバスに乗り込んだ。が、「ここはほかのとこじゃなかった!」と焦ったのは、バスの運転席の脇に貼られた「恐喝には応じないぞ」という張り紙を見たとき(勇敢な運転手だ)。ここは戦闘状態にある地域以外では世界で1番だか2番目だかに危険といわれる街なのだ。
シウダー・フアレスは、Howard Cambellの Drug War Zone を読んでから、一度は訪れてみなくては、と思っていた街だ。フアレスの麻薬密輸の歴史は古い。アメリカの禁酒法時代は浅瀬を渡ってメキシコ側から酒が運ばれ、アメリカ人も週末の酒盛りを楽しみに来ていた。禁酒法が終わってのち、1970年代までフアレスで名を馳せたのが、「ヘロインの女王」ことラ・ナチャという女性ディーラーだった。その後、この地域を支配したのが、フアレス・カルテルの「天空の王」ことアマド・カリージョだ。カリージョが1997年に整形手術の失敗で死亡した(ことになっている)のち、息子のビセンテに引き継がれたが、これも2009年に逮捕される。いまは、おもにフアレス・カルテルの後継者とシナロア・カルテルがせめぎ合っているといったところか?
バスに乗って終点までの約1時間、緊張して周りに目を凝らしていたが、バスの乗客も街の風景も、普通の地方都市と様子は変わらなかった。中心街でバスを降り、ネットで予約した安ホテルまでタクシーを頼んだ。賑やかな表通りから1本裏に入ると、ぎょっとするような取り壊しかけの建物ばかりのゴーストタウンの風景が。運転手によると再開発の工事中なのだということだが、私が予約したホテルもそのゴーストタウンのはずれにあった。ホテル自体はまあまあきれいで設備も近代的だったけれど、周りは営業しているのかいないのかわからないような、くすんだ色のビルばかり。その場で回れ右して帰りそうになったが、ほかの場所のあてもなく、1泊25ドルという安さもあって、とりあえず1泊することに。
ホテルの並びの古ぼけた店を見ると、パーティー用品やレンタルドレスの店ばかりで、近くには貸パーティー会場もあった。あとで人に聞くと、これも国境の街ならではのものだという。アメリカ側の人たちが、安上がりにパーティーをするためにやってくるのだ。アメリカでは20歳にならないとアルコールは飲めないが、メキシコに来れば18歳から飲める。少しくらい羽目を外しても、メキシコでは警官に賄賂を払えば見逃してもらえる。結婚式やメキシコ系の人たちの習慣の「キンセアーニョス」という15歳の女の子の誕生パーティーも、同じ予算でもアメリカ側でやるよりずっと豪華にできるというわけだ。
別のホテルを探して、ネットで見た住所を頼りにバスに乗った。街角で道をたずねると、みなとても親切に教えてくれる。フアレスの人はもともとフレンドリーで親切なのだ。しかし最近では治安が悪くなり、よその人とは目を合わせないなど、用心深くなってきてしまったそうだ。
アメリカ風の広い道路にファーストフードやチェーンレストランの並ぶ近代的な風景があり、さらに病院が建ち並ぶ地区がある。これも国境の街ならでは。安く医療を受けるために、アメリカ人がフアレスにやってくるのだ。
しかし探していたホテルのあるあたりまで歩くと、様子がおかしくなってきた。4車線のメインストリートなのに、バスも走らず、道路の両側の商業施設がことごとく閉まっていて、「貸店舗」の看板ばかり。まだ新しい店舗も閉店している。マフィアの恐喝のせいなのか? 人通りも少なく、歩道には大きな穴があいていた。これはまるで戦争のあとの風景だ。パトカーや警官の姿もあちこちで見かけた。そんな地区だけに、探し当てたホテルの周囲には営業している食堂も商店もほとんどなく、あきらめて帰ることにした。
国境を越える
フアレスとエルパソは、リオ・グランデ川を越える4つの橋で結ばれている。そのうち歩いて渡れるのがサンタフェ橋。入口で6ペソを自動支払い機に入れて橋を渡る。橋の長さの割に川の水は少なく、コンクリートの土手に「人殺しの国境警備隊」などとペンキ書きされているのが見える。橋の真ん中に国境を示すプレートがあり、その先に黒いサングラスに黒い制服の、いかにも、という風情のアメリカ人警官がいたので写真を撮ると、「写真を消せ、消さないと連行するぞ」と怒鳴られた。
アメリカ側に着き、入管の前で30分ほど列に並んでパスポートを見せると、脇にある建物に行けと指示された。20人程が椅子に座って待っていたが、入管の係官は窓口に2人だけ。そのうち1人は会計だけ担当し、手続きはしない。窓口の奥の人同士、冗談を言い合いながらのんびりやっている。待ってる人がこんなにいるのに、これって人種差別じゃないのとイライラしたが、周りのメキシコ人はこんなものとあきらめているらしく、いたって落ち着いたものだった。2時間も待たされて、やっと順番が来た。渡されたのは、いつも飛行機の中で記入する入国管理カードで、入国税6ドルを払えと言う。あいにくドルの持ち合わせがなく、入管には銀行もキャッシュディスペンサーもない。しかたなく手続きを待つ列の人たちに向かって、「誰か両替できる人、いませんか?」と声を張り上げると、2、3人が手を挙げてくれ、すぐに両替してもらえた。さらに別の建物で手荷物検査などをして、晴れてエルパソ側に出たときにはもう3時間が経過していた。たった6ドル払うために、3時間!
この国境の橋を毎日のように渡って通勤している人も多く、たいがいのフアレスの住民は、エルパソの一定の地域までなら自由に行き来できるビザを持っている。その地域を越えて行きたい場合は、先の建物で何時間も待って手続きをしなくてはならない。最近ではアメリカの市民権を申請する人が多く、フアレス市民のとくに若い世代の多くが、治安の悪化を嫌ってエルパソに移り住んだという。
それにしても、そこを越えただけで、風景も人の態度も一変するのが国境というものなのか。エルパソの中心街には瀟洒なビルが建ち並び、歴史的な建物を保存した一角もある。ここエルパソは、アメリカ全土でももっとも治安のよい街のひとつだそうだ。犯罪都市・フアレスと隣り合っていながら、どうして? エルパソには米軍基地もあり、警察の取締りが厳しいので、犯罪者も自重しているらしい。実際、金のあるナルコは、家族と静かに暮らすためにエルパソ側に住んでいることも多いそうだ。何か事を起こしたいときはフアレス側でやるというなのか?
エルパソ散歩を終え、暗くなる前にフアレス側に戻ろうと、メキシコ系らしい地元の人に道をたずねると、怪訝な顔で「なんでフアレスになんか行くんだ?」と驚かれた。「気をつけなさいよ」という言葉を聞くのは、もう何度目かだった。
来たときと同じサンタフェ橋を渡る。橋の入り口で通行料を払って、周りを見回すが、どこにもパスポートをチェックする場所がない。けっきょく、ノーチェックのままメキシコ側に出てしまった。
サンタフェ橋にほど近いところに、大聖堂があり、その脇が市場になっている。市場はまだ明るい6時頃には店じまいを始め、代わって酒場の前に人の姿が目立ってきた。角ごとに人待ち顔の男や女が立っている。Cambellの民族誌によれば、フアレスではコカインやヘロインはトルティージャを買うより簡単に買え、街角で一声かければいいだけだという。それだけ危ない人間が徘徊している、ということだ。よい子は夕食と朝食用の食べ物を買って、ホテルに急ぎ足で向かわなくちゃいけない時間だった。
砂漠の中のマキラ
翌日、ホテルの前で客待ちをしていたタクシーと交渉して、フアレス案内をお願いした。運転手のアドルフォさんは、19歳の時からもう40年もフアレスでタクシー運転手をしているという。自分の兄弟らも子ども2人も孫たちもみなアメリカ側に住んでいて、自分もアメリカ側に行こうと思えば行けるが、フアレスが好きなのだ、といった。最近は治安は落ち着いてきているそうだ。地元新聞では毎日のように殺人事件の報道があるようだが…。
まず案内してもらったのが、マキラドーラと呼ばれる輸出加工工場。最初に通りかかった中国系の工場2つは、マフィアの強請に遭って閉鎖していた。従業員の安全確保のためのコストを考えるとペイしない、という判断だったらしい。それでも地元新聞の報道によれば、撤退する工場もある一方で新たに参入する外資もあり、フアレスではマキラは順調に成長しているとのこと。フアレスの南東に広がる工場地帯には近代的な工場が点在し、工場の脇には貨物専用の鉄道があった。1日数回、深夜や明け方にアメリカ側の工場との間で貨物列車が行き来するという。国境を挟んで、北と南の工場で分業体制が取られているのだ。
工場のひとつのすぐ脇に、可愛いいイラストで飾られた保育園があった。これが、工場が雇用する大勢の女性従業員のために欠かせないものなのだ。毎日交代制で働く従業員のために、郊外の住宅供給公社の団地からバスの便があり、母親たちも子どもを連れて出勤してくる。
その工場労働者たちのための団地にも連れて行ってもらった。半砂漠地帯の埃っぽい山肌に張り付くようにして建っている、パステルカラーに塗られたささやかな家々。思わず、「クリアカンの墓の方が大きい…」とつぶやいてしまった。周りには何もなく、買い物もバスで郊外の大型スーパーに行くしかない。ちなみに、フアレスに高級住宅地はないのかと尋ねると、金持ちはみなエルパソ側に住んでいる、という答えだった。マキラの幹部らも、エルパソ側の家から毎日通っているのだそうだ。
次いでアドルフォさんに連れて行ってもらったのが、国境の橋から遠くに見えていた、山肌に「聖書は真実なり。読みなさい」と大書された山のふもとの地区。急斜面を縫うように上り下りする狭い道路と貧しげな家々が軒を並べる地区の真ん中に、巨大な塔のある豪勢な教会が建っていた。「世界の光教(Luz del Mundo)」というメキシコ発祥のキリスト教系新興宗教の教会で、山にその文字を書いたのはこの教会なのだそうだ。数年前まではフアレスでも有数の治安の悪い地区で、ギャングがはびこっていたが、教会の活動もあってか、最近では暴力は格段に減ったという。ギャング団につきもののグラフィティ(壁の落書き)も目につかない。アドルフォさんによると、描かれたらすぐに消して、きれいな絵を描き直しているのだという。
生粋のフアレスっ子のアドルフォにとって、国境も遊び場のようなものだったという。エルパソとの間には水路や排水管などがたくさんあって、有刺鉄線を越えなくても、行き来できる場所がたくさんある。小さい頃、水路のひとつにもぐりこんでエルパソ側に出、また戻ってきたことがあると教えてくれた。フアレスが急拡大したのは、北米自由貿易協定が結ばれた1994年から。メキシコ中から大勢の人が職を求めて流れ込んできた。しかし6年前にカルデロンが大統領に就任するまでは、フアレスはこれほど暴力的ではなかった。企業や商店に対するひどい恐喝も、始まったのはそれから後だという。
フアレスは今後、平安を取り戻していくことができるのだろうか? メキシコシティへの帰りの飛行機で隣に座ったエルパソ在住だという男性は、「ここ数年のうちには難しいだろう」と眉をひそめた。フアレスに限らず、メキシコ全土に拡大したこの麻薬戦争は、いつ、どのようにして、終息を迎えることができるのか? 新しく大統領に就任したペーニャ・ニエトに、確固とした処方箋があるようには見えない。ウサマ・ビンラディンを米軍が殺害したように、チャポ・グスマンをやっつけることは可能だろう。実際、その計画があったことが、2012年8月のProceso誌にすっぱ抜かれていた。だがチャポひとりを倒したとしても、問題が解決するわけではない。私たちは遠くから、見守っているしかないのだろうか。